世界で最初のレジスターは、1878年(明治11年)に米国のジェームズ・リティというカフェ経営者によって生まれました。リティは、大西洋を船で横断中に機関室でエンジンやボイラー、速度などの計器を見て、レジスターの原型を発想したそうです。リティの製作したレジスターは「ダイアル・レジスター」と呼ばれ、置時計のような形をしており、時計の文字盤にあたる部分に長針と短針で、1~9までのドル表示と5~95までのセント表示ができました。買い物客と店員双方に取引の内容を表示するという機能だけしかありませんでしたが、押しボタン式で即座に表示できるという意味でレジスターの原型となりました。
この後には表示内容をピンで穴をあけて記録する「ペーパー・ロール・マシン」(1879年)や、取引合計を計算できる「ディテール・アダー式レジスター」(1883年)などが考案され、レジスターの機能が追加・改良されました。
レジスターの初めての本格的な販売は、これらのレジスターの販売権利を買い取り、J.H.パターソンが1884年(明治17年)に設立したレジスターの会社(NCRの前身)により行われました。レジスターには売上げ合計、客数、分類、レシート発行機能などが追加され、米国の小売店に次々と導入されていきました。
日本初めてのレジスターは、アメリカのナショナル・キャッシュ・レジスター(NCRの前身)から、横浜の貿易商・牛島商会によって輸入されました。1897年(明治30年)のことです。
明治ころの店の様子。レジスターは店の真ん中にどっしりとおかれていた。
キャッシュ・レジスターの時代の初期に製造していた基本機種はわずか12機種でしたが、1897年までに90種類と大幅に増加しました。世界で最初の電動レジスターは、「100号レジスター」と名づけられ、1902年(明治35年)に発売されました。電気掃除機、電気洗濯機、電気冷蔵庫といった家電製品よりも、いち早く電化されたのです。この「100号レジスター」は電動で稼働し清算回数が表示されるという、当時としては大変画期的なものでした。これら初期の製品はいずれも販売店を通じて入手された顧客ニーズと、社員からの提案を基に改良・開発したもので、NCRでは既にこのころより顧客ニーズを取り入れ、製品にフィードバックするといった製品開発手法を実施していました。
この年早稲田大学が開講され、翌明治37年には、三井呉服店が株式会社三越呉服店とし、日本で初めて「デパートメント宣言」を発表しました。 大正時代に入ると、陳列法式による販売が一般化し始めました。
ライト兄弟 はじめて空を飛ぶ(1902年)/共同通信社・提供
世界で初めてエンジン付きプロペラ飛行機を発明したアメリカ人・ライト兄弟(兄・ウイルバー、弟・オービル)はNCRのあるオハイオ州デイトン市で自転車屋を営んでいました。 幾度の失敗にもめげず、研究や実験を続け、ついに1903年一号機「フライヤー号」で人類初の飛行(12秒間)に成功しました。
大正初期のカフェ
最初の電動レジスター
精算回数器付
レジスターの歴史の中で、金額表示、レシート発行、取引記録、売上合計、取引回数の記録というレジスターの5大機能がついたのは、1919年(大正8年)の「1700号レジスター」が最初の製品でした。このころのレジスターは日々改良・開発が進み、各種分類合計器などの機能が付加されるようになりました。
レジスターの普及により、座売りから陳列販売方式が一般化し始めたのもこの頃です。三越にもNCRのレジスターが大量採用されました。レジスターの価値が認められ始めた証といえるでしょう。
関東大震災(1923年)
大正12年9月1日午前11時58分、関東地方に大地震が発生。震源は相模湾西部の地下28Km、マグニチュード7.9、全壊全焼家屋は575,394、半壊半焼家屋126,233、死者91,344人、行方不明13,275人をだし、被害総額は当時の額で55~65億円といわれています。(学習研究社「新世紀百科事典」)
倒壊した木造家屋から出火した火は、枯れ草を燃やすように広がり電信電話・交通機関の混乱、ガス・水道などの停止でパニック状態になりました。この地震で浅草12階建ての凌雲閣が倒れ、古くからの文化遺産も倒壊したり焼失しました。
レジスターの普及により、陳列販売方式が一般化した
レジスターの配達はハーレー・ダビッドソンで
電動レジスターから17年後に、2000号レジスターが1926年(大正15年・昭和1年)世に送り出されました。この2000号機は2万個以上の部品、30個におよぶ各種分類合計機、アイテマイザー(数点売計算機能)、減算機能、二重伝票の認証印刷が可能になったほか、売上げの中間合計点検や清算の自動算出機能が装備されました。
最初のユーザーはニューヨークのスタトラー・ホテル・チェーンでした。ホテル内で発生する各種の売上伝票への消し込みと請求書への同時記帳機能き可能でした。この同時記帳の機能を利用して一回の操作で預金者の通帳と銀行の元帳に同時に取引が記帳できるため、銀行の窓口会計機としても人気を博しました。また、飲食店等へも導入が拡大されました。
上野-浅草間に地下鉄が開通
(1927年)/共同通信社・提供
1929年(昭和4年)、ニューヨーク証券取引所での株の大暴落、いわゆる「暗黒の木曜日」により、世界大恐慌が始まり日本経済もその渦中に巻き込まれました。1930年(昭和5年)には米国にて最初のスーパーマーケット「キングカレン」が“価格の破壊者”という、現在でも通用するセンセーショナルなキャッチ・コピーで開店しました。
1933年(昭和8年)に発売された「6000号」レジスターは「2000号」を母体として開発したもので、部門別(8個)、取引別(4個)での集計・管理機能等が強化されました。このレジスターの登場により小売業での部門別管理が可能になり“部門別管理”という最初のマーケティング手法が導入されはじめました。
やがて時代は多分類管理へと移行していきました。第2次世界大戦が勃発、戦時中、NCR製レジスターは『敵産管理』という、厳しい規制を受けました。その間は、日本金銭登録機の名前でサービスだけを続けていました。
終戦後の昭和23年には日本百貨店協会設立といった流通業界復興への第一歩がしるされました。
キャプ座を闊歩するモダンガール(モガ)
(1933年頃)/共同通信社・提供ション
百貨店の語源である「DEPARTMENT STORE」という言葉には読んで字のとおり「百貨」という意味は全くありません。最初はDEPARTMENTすなわち「部門」単位で管理・運営する店舗という意味で創られました。
当時日本にこの「DEPARTMENT STORE」という言葉が入ってきたとき、最初は「部門別大店」あるいは「専門大店」と訳されていました。
大八車でレジを配達
第2次世界大戦により敵産管理を受け販売活動を停止したが、保守サービス活動は続行
日本ナショナル金銭登録機(株)として再建
米国でのショッピング・センターの急速な発展など、商業活動の活発化に対応して、1950年(昭和25年)に「21号レジスター」は発売されました。合計器が搭載され、コンパクト化、低価格化、レジ特有の機械音の軽減等、使いやすさと耐久性に優れ、多業種で使用されるようになりました。
リードレジの左側にはアルファベットでA,B,D,E,H,K,L,Mの8種類(C,F,G,I,Jは読み間違える事を懸念して削除してありました)のボタンが配され、主に取り扱い者別に使用されていました。また、右側には現金売り、貸し売り、支払いなどのボタンも配され、取引別区分も可能になりました。ボタン操作面は人間工学的に最も作業しやすいように30度の角度がつけられるなど、細かなところまで配慮された設計です。シンプルな機能の普及型から高機能搭載型まで多数のモデルがラインナップされました。
テレビ放送開始を驚きのまなざしで見つめる人々(1953年)/共同通信社・提供
1957年(昭和32年)「神武景気」は戦後初の好景気で約30ヶ月続きました。民間企業の積極的な技術開発と新製品の開発など、工業化への設備投資に拍車がかかりこの経済成長を生みました。三種の神器といわれた洗濯機、掃除機、冷蔵庫が発売されたのもこの時期で、日本初のフィルター付きのタバコ「ホープ」40円も登場しました。
第1回MMM国際商業視察団派遣(NCR主催)
1961年(昭和36年)スーパーマーケットへの納入等でベストセラーモデルになった「22号レジスター」が発売されました。8個の部門別合計器を搭載し、合計器のボタンには「ヨ・キ・ミ・セ・サ・カ・エ・ル(良き店栄える)」と記してありました。この機能によって、お店の取扱商品を例えば、青果、鮮魚、精肉、酪農品、一般食品、塩干物、冷凍食品、調味料などに分類して、部門別管理を行うことができるようになりました。
それまでは、お店全体で管理をしていましたが、部門別に管理することができるようになったことから、それぞれの売上や利益の検討などによる売り場面積の変更や取扱商品の変更など、細やかな計数による科学的な経営ができるようになりました。
ダッコちゃん大ブーム
/共同通信社・提供
「ダッコちゃん」人形は、1960年発売され日本中で大ブームを起こしました。価格は180円で、年間に240万個という売上げを記録しました。ちまたでは子どもから大人まで、「ダッコちゃん」を腕につけるのが流行しました。
1963年(昭和38年)に発売された「21号セールス・トロニック」は、機械式のキャッシュ・レジスターに電気式のパンチ・テープ・レコーダーを組み合わせたコンピューターとの連携システムでした。その仕組みはレジスターの歯車の位置を電気信号に変え、そのデータを紙テープ穿孔機に伝えパンチ・テープを作成するものでした。1966年(昭和41年)には「21号NOFレジスター」が登場しました。NOFはNCRが独自に開発したもので、人間の目にも機械の目にも読める”0″から”9″までの数字と6個のシンボルからなる16個のOCR活字を活用し、この文字を光学的に読み取る技術を応用して、レジスターの記録紙に印刷するものでした。
NOFレジスターとしては21号、22号、52号、53号と、銀行の窓口出納機として開発された42号などが用意され、小売業界から金融、商工業関係などで、コンピューターへのデータ・インプットに画期的な進歩をもたらしたのです。
アポロ11号月面着陸(1969年)
/共同通信社・提供
1969年7月16日、アメリカ・ケネディ宇宙センターを飛び立ったアポロ11号に乗船していたアームストロング船長とオルドリン飛行士は、長い間人類が夢見た月への到達に成功し「静かな海」に着陸しました。月には約21時間滞在し、岩石の標本採取、観測装置の設置などを行い、無事地球へ帰還しました。
電動10キー、売上合計の自動算出
1970年(昭和45年)に発売された百貨店用POS「NCR 280 リテイル・ターミナル」は業界初の双方向インハウス・オンラインを採用した機種で、集められたデータにより全取引明細の検証・記録と、売上げ情報のレポートが可能になりました。日本初のペン状リーダーでのスキャニングによる商品タグの自動入力や緑・白・黒の3色を使ったカラー・バーコード・システムも開発され、従来の手作業によるチェックアウト業務を大幅に改善、百貨店での普及が急速に拡大しました。
1971年(昭和46年)に、世界初の電子式レジスター「NCR 230 ECR」が発表され軽いタッチによる容易な操作性と、30分類の合計機能を持った高性能レジスターとして爆発的に普及しました。
1973年10月に第4次中東戦争が勃発し、世界中に石油危機の衝撃が走りました。石油価格は高騰し、「狂乱物価」など日本経済への影響も深刻でした。ガソリンスタンドの休日営業の取りやめや、スーパーマーケットでのトイレットペーパーの買いだめなどの行列が各地で見られました。
オイルショックによる物不足、買いだめに走る人々(1973年)/共同通信社・提供
一般的にPOS(Point Of Sales)システムと呼ばれる、販売時点情報管理システムは、自動読取方式のPOSターミナルから単品別に収集した販売情報、仕入れ、配送などで発生する各種情報をコンピューターに送り、各部門が有効利用できるようなマーチャンダイジングやマーケティングのための情報に加工し、伝達します。
テキストスーパー向けECR<30品番、トータル・コレクターでデータ収集
10部門、5扱者のECR
専門店POS
専門店向け伝送機能付きPOSシステム
ホテル、レストラン向けシステム
ホテル、レストラン向けシステム
日本における最初のJANコードによるPOS/スキャニング・システム店頭実験は、1979年(昭和54年)(財)日本流通システム開発センターの委託によって「たつみチェーン」でスタートした「NCR 255/6060」システムです。1985年にはイトーヨーカ堂への全店POS導入が行われ、本部と全店をつなぐオンライン・システムを構築しました。これにより店舗や商品の特性が把握でき、本部仕入れへのデータの活用が可能になり、あわせて売上集計・監査が合理化されました。
POSシステムの最大の特徴はPLU(Price Look Up=価格検索)で、POSターミナルへの売上登録の際、商品の単価を入力せずに個々の商品に印刷、または貼付されているバーコードをスキャナーで自動読み取りし、ストアコントローラーの商品マスターファイルにあらかじめ記録されている単価、品名、部門コード、割引率などを索引、自動登録し、売上金の計算とレシート発行を瞬時に行います。
NASAがスペースシャトル第1号を打ち上げる (1979年)/共同通信社・提供
1981年4月12日、スペースシャトル・コロンビア号が打ち上げられました。NASAが開発したこのスペースシャトルは、初めて宇宙ロケットの再利用を可能にしました。翼のついた軌道船「オービタ」と、発射時に取り付けられている2本の個体ロケット「ブースター」で構成されていました。この「オービタ」の全長は37.24メートル、翼幅23.79メートル、高さ17.25メートル、重量90トンで、地球再突入時には飛行機のように滑空して着陸し、宇宙空間での貴重な実験結果を持ち帰りました。
1988年(昭和63年)に発表された「NCR統合リテイル・システム’90s」は、最先端技術を結集したハード/ソフトを含むトータルな流通業向けの情報システムです。顧客との密接なリレーションを重視した新時代向け経営をコンセプトに、顧客との接点、取引先との接点など膨大な取引きを柔軟に処理するOLTP、より顧客に近いところでの分散処理とローコスト重視の集中処理を効率よく組み合わせるシステム構成、LANや対外ネットワーク網拡大などへの対応や、オープンな環境への対応と稼動への容易性を設計理念としています。
「NCR 2127プラットフォーム」2機種と「NCR 2123 POSターミナル」がラインナップされ、百貨店・大型店向けの「NCR ARMIS/Eシステム」とスーパーマーケット向けの「NCR TRIM/Eシステム」、中小規模スーパー向けの「NCR 2123/ADCOMシステム」として提供、NCRが誇る優れたハード/ソフトとシステムづくりのノウハウを結集させた、トータルな流通業向けの情報システムです。
ベルリンの壁崩壊、東西冷戦の終焉
(1989年)/共同通信社・提供
1986年12月から1991年4月まで続いた好景気(バブル景気)は、1965年の「いざなぎ景気」に次ぎ戦後2番目を記録する、実に4年4ヶ月という長期間持続しました。しかし1990年2月に株価が暴落、この「バブル景気」も水泡に消え日本経済は後遺症に苦しむことになりました。
1993年(平成5年)に発表された「NCR ブレークスルー’90s」は百貨店、量販店、スーパーマーケット、専門店など、小売業者の全業種、全業態を対象に、明日の小売業の情報革新をリードし最前線の情報をリアルタイムに活用できるシステムをコンセプトに開発されました。具体的には、UNIXを採用したオープンでスケーラブルなコンピューター「NCR 3000ファミリー」の3100から3600までの6モデルを、エンタープライズ・サーバー、コミュニケーション・サーバー、ストア・サーバー、セグメント・サーバーとして位置づけ、ライトサイジング(適正規模)化を実現、また、POSワークステーションや、PCなどをLAN(構内情報通信網)接続したクライアント/サーバーモデルの活用、あるいは、Windows GUIによる容易な操作性をはかります。
一般売り場には「NCR 7450 POSワークステーション」、レストランやテナント売り場には「NCR2170テナントPOSターミナル」、売り場事務所や物流センターには「NCR 3300 POM(受注・発注)ターミナル」をそれぞれ配し、店舗用トータル・ネットワークを構築し、POSによる現場支援から、単品管理による生情報をベースにしたマーケティング分析、意思決定支援を実現しました。
皇太子殿下、雅子様御成婚
(1993年)/共同通信社・提供
1993年(平成5年)6月9日、皇居内、賢所において皇太子浩宮様、小和田雅子様の「結婚の儀」、引き続き「祝賀パレード」が執り行われました。パレードは皇居から仮御所まで4.25キロのコースを、お車でゆっくりと進み、燕尾服の皇太子さまの隣で、白のローブデコルテに身を包んだ雅子様がにこやかにほほ笑む姿に、日本中が注目しました。パレードコースの沿道には、お二人の晴れの姿を一目見ようと19万余の市民が詰めかけ、車上のお二人を祝福しました。この様子はテレビ中継されましたが、視聴率は80%にも達したといわれています。
1996年(平成8年)に発売された「Win POS 21」は、基本OSにWindows NTを採用、イントラネット/インターネットとの連携によるマルチメディア機能を強化したPOSワークステーションです。これまでのPOSシステムは、販売時点情報管理システム(Point of Sales)として、販売時点において情報を取得し管理するた゚のシステムとしての位置づけで使われていました。
「Win POS 21」は更なる顧客サービス向上のために、蓄積された顧客の購買履歴などの情報をインターネット/イントラネットとの連携といったマルチメディア機能を介して瞬時に取り出し利用することが可能となり、個客にきめ細かなサービスの提供をするサービス・ターミナル(Point of Service)として位置づけています。例えば新商品やイベントなどの画像を利用した顧客向け情報提供サービス、電子メールによる各種伝票などの送受信、商品・顧客情報サービスやホームページの紹介なども行え、流通業界におけるマーケティング手法の主流を担う、『個客』主体の「One to Oneマーケティング」を強力にサポートします。
アトランタ・オリンピック女子マラソン
ゴールした有森裕子選手(1996年)/共同通信社・提供
8月7日、国民的映画といわれた松竹映画の人気シリーズ「男はつらいよ」の主人公の車寅次郎こと渥美清さんが、ガンのため68歳で亡くなりました。1969年(昭和44年)に第1作目が公開、「フーテンの寅さん」の愛称で親しまれ、以来27年間、48作というギネスブックに載るほどの人気映画でした。日本国民を魅了し続けた渥美清さんの突然の訃報に、「寅さん」を偲んで日本全国のファンがゆかりの地、東京・柴又、帝釈天に集まりました。